わたしが与える水

『しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』(ヨハネの福音書4章14節)

聖書にはイエスに出会い、大きく変えられた人物がたくさんいる。しかしその中で詳細にその事実が載っている事は少ない。ヨハネ四章に出てくるサマリヤ人の女性の話は、それだけに非常に大切なメッセージを私たちに送っている。

彼女は自分の人生に失望していた人であった。人との関係に躓き、失敗を繰り返していた。しかも周りもその事を良く知っていた。だから、彼女は常に人目をさけて生活をしていた。そんな矢先、彼女はいつものように人目を避けて井戸に水を汲みに来ていたところ、そこで彼女はイエスに出会った。そして声を掛けられた。「わたしに水を飲ませてください。」

現代に生きる私たちには何でもない出来事であるが、当時の歴史的背景を考えると、これはおどろくべきことであった。なぜならこの女性はサマリヤ人という民族であり、イエスはユダヤ人という民族。この二つの民族は歴史的に対立関係にあり、お互い口を利かない隣人であったからだ。しかし彼女が驚いたことはそれだけではなかった。

イエスはこの女性に「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」と言ったのだ。イエスは彼女の心にあるその渇き知り、その心を潤す水を彼女の為に与えると約束したのだ。

「心が渇く」という状態を理解するのは難しい。のどが渇いたら、お茶を飲めばのどが潤う。心を満たすために現代人は多くの事柄に挑戦する。自分の趣味を持ったり、サークルに入ったり、旅に出たり、気晴らしとなる多くの手段を持とうとする。しかしいくらお金があっても、どれだけ飲んだり食べたり、楽しいことを続けたとしても、人の心は満たされない事が多々ある。あるとき子どもたちにゲームとかおもちゃとか買ってもらっても、お友だちと遊んでも、なんか“つまらないなぁ”と感じたり、“おもしろくないなぁ”と思ったりすることがあるかと尋ねたときがあった。子どもたちは、即答で“ある”と答えた。子どもでも“心が渇いている”状態があるのである。子どもも大人も、満たされたいと願っている気持ちはどこかにあるのではないだろうか。それを認め、自分の心が潤される事を願う事が出来る人は幸いである。子どもは正直であるが、大人になると、なかなか素直になれず、そのことを認めない。心が渇いた状態が、何か自分の弱さであるかのように考えてしまうからだ。しかし聖書は言う。「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」と。

私たちの心にある渇きを潤す水がある。聖書はそれを約束している。そして神はそれを私たちに与えようと願っておられるのだ。イエスがこの渇きを持っていた女性に近づいてその渇きを潤したように、あなたの心の渇きを潤すことをも願っておられるのである。

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