けやき通りキリスト教会

日本福音自由教会に加盟するプロテスタントの教会です

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ブログ

自分にしてもらいたいことは…

『…何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。』(マタイの福音書7章12節)

あるアメリカの企業が“統括ディレクター”という職種を募集、インターネット上でその面接が公開されました。面接官は、インターネット上で面接にきた一人一人にその仕事の説明をしていきます。すると面接にきたすべての人が、その仕事内容に驚き、怒り出します。なぜならその仕事内容は、年中無休(24時間休憩なし)。時には徹夜でお客につきっきりで寄り添わなければならず、更に驚く事に無給!実は、母の日のギフトを贈る会社のドッキリ企画でした。“統括ディレクター”とは“母親の仕事”だったのです。このように提示されると改めて母親の仕事は大変なものだと思わされました。経験しないとなかなか気付かないことがあります。“何事でも”と云われると、ちょっときついですが、受けた愛は他の人にも与えていきたいと思わされました。

上記の箇所はただ良い行いに努めよと語っているだけではありません。私たちには気がつきにくいけれども注がれている愛があることを示しています。それは神様の愛です。神様は母親と同じように、いやそれ以上に、私たちを愛し、寄り添っておられるお方です。その愛は十字架の上で示されました。神であられるのに人となられ、何の罪も犯したことはないのに、世の人々のすべての罪を背負って十字架に架かりました。それは自分の罪故にほろびに向かっている私たちをその罪とその滅びから救うためです。私たちは自分たちが何かをする前に、すでに大きな愛を神様から受けているのです。

人はなぜ救いが必要か

『空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。・・・昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。』(伝道者の書1章1節~3節、9節)

2017年度が始まりましたが、皆様は、いかがお過ごしでしょうか?

この聖書のことばは、ソロモンという人によって書かれたと言われています。ソロモンは非常に知恵に満ちた王で、彼の王国は繁栄と栄華を極めました。しかしそのような成功を収めた人が、このようなことを語っているのです。どうしてでしょうか?

「塩狩峠」や「氷点」の著者である三浦綾子さんは、第二次世界大戦の敗戦後、非常に大きな虚無感を持ったそうです。七年間小学校の教員として子どもたちの教育に携わり、戦時中の価値観で、子どもたちを一生懸命教育しました。国のために戦争をすることが良い事だと思い、それが教育につながると思いました。しかし敗戦により、その価値観が一変してしまいました。自分がこれだと思って教えてきたものが、違うと真っ向から否定されてしまったのです。その後、国のあり方や、自分の信じてきた歩みに疑問を抱く日々を送るようになったそうです。

上記の聖書箇所は、その三浦綾子さんが大きな衝撃を持ったとされることばです。なぜ衝撃的であったかというと、世の中の在り方に失望していた三浦さんですが、聖書の教える、この世に対する失望は、それを大きく上回るものだったからです。彼女は、その著書の中でこう語っています。「わたしはここまで読んで思わず吐息が出た。わたしはかなり自分が虚無的な人間だと思っていた。何もかも死んでしまえば終りだと考えていた。だが、この伝道者の書のように、『日の下には新しいものは一つもない』とまでは思ったことがなかった。」[1] 更にこう語っています。「毎日が結局は繰り返しだと思いながらも、しかしわたしはやはりこの世に新しいものがあると思っていた。こうまですべてを色あせたものとして見るほどの鋭い目をわたしは持っていなかった。」[2]と。

皆さんは、何を心の糧として歩まれているでしょうか。自分にとって支えとなる価値観は、どのようなものでしょうか。思えば、私たちは何かをもってこの地上に生まれたのではなく、また、何かをもってこの地上を去ることも出来ません。「日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう」と思わざるを得ません。しかし、この聖書のことばは、この世に、或いは自分自身に希望を置くのではなく、私たちを造られた存在に目を留めるように促します。この世界を造られた神がおられ、その神が私たち一人一人を愛されているとするならば、私たちは自分自身の存在に意味を見出すことが出来き、自分が生きなければならない目的を見出すことが出来るからです。しかし聖書は、その一方で、私たち人間は生まれながらにして、その神から目を背ける罪(原罪original sin)があると云います。神がこのすべてを造られ、今も治めておられることを見えなくさせる罪、その神をないものとして生きようとする罪がある。そして人はその罪を持ったままだと、自分の生きる意義、人生の目的を見出すことは出来ない、と云うのです。

イザヤ書43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。…

あなたを生まれる前からすでに知っている神を、是非、知ってみませんか?

[1]三浦綾子、「道ありき 青春編」主婦の友社、1969年、81頁。                          [2]三浦綾子、「道ありき 青春編」主婦の友社、1969年、81頁。

希望の光

『主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。』(へブル人への手紙2章18節)

皆さんは、どのようなクリスマスをこれまで過ごされて来たでしょうか?

日本人にとってクリスマスとは、サンタさんからプレゼントをもらう日、素敵な恋人と過ごす日、或いは外国のお祭りのようにあまり馴染みのないものかもしれません。しかし実は、私たち日本人にも関わりがある日なのです。それは私たち日本人をも救いに導こうと願っておられるイエス・キリストの誕生を祝う日だからです。

イエス・キリストは、今から約2000年前に、イスラエルのベツレヘムというところでお生まれになりました。神が人のかたちをとった姿が、このイエス・キリストなのです。しかしその誕生は非常に簡素なものでした。イエス・キリストは、その夜、馬小屋で生まれ、飼葉おけに寝かされていたのです。

誰が自分の赤ん坊を飼い葉おけに寝かせるでしょうか?飼葉おけとは、牛や馬などの餌となる草を入れるおけです。当然汚いでしょうし、臭かったことでしょう。石で出来ていたようでありますから、固くて、冷たいものであったに違いありません。しかし神は、そのような人が嫌がる場所に自らを置くことを通して、私たちの救い主となって下さったのです。

この暗くさびしい馬小屋に生まれたキリストは、人を救うためにご自分のいのちをお捨てになりました。そのような神が、他にいるでしょうか?救い主イエス・キリストは、私たち人間の冷たく、汚い心に希望の光を照らすために、私たち人間と同じような姿になられました。飼葉おけに寝かされたのは、救い主として生まれたしるしだったのです。

「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」

あなたの心にキリストの光が届きますように。

老いの冠

『若い男の光栄は彼らの力。年寄りの飾りはそのしらが。』(箴言20章29節)

ようやくすごしやすい季節となりましたが、皆さんは、いかがお過ごしでしょうか?

あなたの肌年齢は何歳ですか?あなたの脳年齢は何歳ですか?最近テレビではアンチエイジングが叫ばれ、メディアからは、年を重ねることが衰退をイメージさせるメッセージが送られます。アンチエイジング化粧品のコマーシャルなど多くなっています。年を取る事がまるで恐ろしい事のようです。この世界の価値観は、自分を若く美しく保つことが価値のあることとしているのではないでしょうか。確かに若く美しく保つことが出来ればいいのですが、私たち人は自然にそのような存在として造られておりません。時間の中で老いを感じ、体力・知力の衰えを覚えながら、それとうまく付き合っていかなければならない存在です。それは自分の価値を落とす事なのでしょうか?年を取ることは、自分の価値が擦り減っていく悲しい現実なのでしょうか?

この聖書の箇所は、若い男と年寄りが並べて書かれ、それぞれの光栄が比較されています。どちらの光栄が優れていると言っているのではなく、それぞれに光栄が異なっていると聖書は語ります。若者にとっての光栄は、力。体力、知力…、とにかくエネルギーがあるのが若者の象徴でしょう。それに対して聖書は「年寄りの飾りはそのしらが」と言います。別の聖書箇所では「しらがは光栄の冠」。つまり聖書では、若さも良いことながら、年を取ることも美しい事であり、名誉な事としているのです。

けやき通りキリスト教会は、今年度から、シオン会なるものを発足いたしました。これはシニア世代を対象にした会です。お年寄りの方々にとって教会がより身近であるようにとの願いから始めました。教会は、外見にこだわらず、年相応に生きてゆく喜びを共に見出すところです。それは、教会のかしらである神がそのような価値観であられ、人はその神の評価によって生きる者だからです。罪を赦して下さり、あるがままの私を受け入れて下さる神の恵みの評価によって立つことが、どれほど喜びにあふれたものであるか、是非、知っていただきたいと思います。この機会に、教会に足を運んでみませんか?

初めに神は・・・

『初めに、神が天と地を創造した。』(創世記1章1節)

「イワシの頭も信心から」と言いますが、信じることに美徳を感じる…そんな感性が私たちのうちにないでしょうか? “信じる”ということは、うつくしい行為であり、人の心にも“信じる”ということで大きな活力を生み出すことがあるかと思います。しかしどんなものでもいいから信じればいいということではないでしょう。自分にとって都合のよいものを盲信した結果、誤った方向に陥ってしまう事もあるでしょう。ですからやはり“信じる”ということ自体大切なことでありながら、何を信じるかということがもっと大切なのではないでしょうか?

「初めに、神が天と地を創造した。」

これは聖書の最初のことばです。

聖書はこのことばによって始まります。この「初めに」ということばは、すべての存在には、その初めがあり、その初めには神による創造があったということを意味します。神がすべてのもの(動物、植物、山、川、この世の秩序、…そして人間)を造られた。つまりすべてのものの起源が神にあるということを聖書は教えているのです。

神がすべてのものの起源であるということは、その造られた目的も神にある事を示します。デジカメを考案し造った人には、その明確な目的があったように、神が人を造ったということに、明確な目的があるのです。この世界はビックバンという偶然の産物によって始まった偶然の存在の集まりではなく、神様という人格を持ったお方が目的を持って造られたもの。その被造物の中に人も含まれている、と聖書は言っているのです。つまり私たち人は偶然生きている存在ではなく、自分自身で存在意義を見出さなければならない者でもないのです。人は神に造られた被造物であり、その存在は必然的なもの。そして何よりも神にあって明確な目的を持った存在なのです。

是非、この神様を知ってみませんか?

わたしが与える水

『しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』(ヨハネの福音書4章14節)

聖書にはイエスに出会い、大きく変えられた人物がたくさんいる。しかしその中で詳細にその事実が載っている事は少ない。ヨハネ四章に出てくるサマリヤ人の女性の話は、それだけに非常に大切なメッセージを私たちに送っている。

彼女は自分の人生に失望していた人であった。人との関係に躓き、失敗を繰り返していた。しかも周りもその事を良く知っていた。だから、彼女は常に人目をさけて生活をしていた。そんな矢先、彼女はいつものように人目を避けて井戸に水を汲みに来ていたところ、そこで彼女はイエスに出会った。そして声を掛けられた。「わたしに水を飲ませてください。」

現代に生きる私たちには何でもない出来事であるが、当時の歴史的背景を考えると、これはおどろくべきことであった。なぜならこの女性はサマリヤ人という民族であり、イエスはユダヤ人という民族。この二つの民族は歴史的に対立関係にあり、お互い口を利かない隣人であったからだ。しかし彼女が驚いたことはそれだけではなかった。

イエスはこの女性に「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」と言ったのだ。イエスは彼女の心にあるその渇き知り、その心を潤す水を彼女の為に与えると約束したのだ。

「心が渇く」という状態を理解するのは難しい。のどが渇いたら、お茶を飲めばのどが潤う。心を満たすために現代人は多くの事柄に挑戦する。自分の趣味を持ったり、サークルに入ったり、旅に出たり、気晴らしとなる多くの手段を持とうとする。しかしいくらお金があっても、どれだけ飲んだり食べたり、楽しいことを続けたとしても、人の心は満たされない事が多々ある。あるとき子どもたちにゲームとかおもちゃとか買ってもらっても、お友だちと遊んでも、なんか“つまらないなぁ”と感じたり、“おもしろくないなぁ”と思ったりすることがあるかと尋ねたときがあった。子どもたちは、即答で“ある”と答えた。子どもでも“心が渇いている”状態があるのである。子どもも大人も、満たされたいと願っている気持ちはどこかにあるのではないだろうか。それを認め、自分の心が潤される事を願う事が出来る人は幸いである。子どもは正直であるが、大人になると、なかなか素直になれず、そのことを認めない。心が渇いた状態が、何か自分の弱さであるかのように考えてしまうからだ。しかし聖書は言う。「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」と。

私たちの心にある渇きを潤す水がある。聖書はそれを約束している。そして神はそれを私たちに与えようと願っておられるのだ。イエスがこの渇きを持っていた女性に近づいてその渇きを潤したように、あなたの心の渇きを潤すことをも願っておられるのである。

キリストの与える実

『しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。』(ガラテヤ人への手紙5章22-23節)

梅雨に入り、雨の日が続きますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?こう湿気の多いじとじとした日が続くと、心がもやもやしたり、いらいらしたりすることもあるのではないでしょうか?

最近のニュースを見ていると、幼児虐待や親子間における殺人や不和が多い印象を受けます。この世の中に住んでいれば、右記の聖書のことば『愛、喜び、平安…』など一つ一つのものがただの理想主義的にしか見えません。事実、私たちの内に、これらの性質があるかどうかと問う時に、自信を持って「私には愛があります!」とか、「私は柔和です!」と言える方々は、もちろん私も含めですが、おられないのではないでしょうか?

実は聖書には、イエス・キリストはこれらの性質をすべて持っておられるお方であることを教えています。このご性質が最もあらわされているのが、イエス・キリストの十字架上でのお姿です。彼は何の罪も犯したことはないのに、世の人々の罪を背負ってすべてを耐え忍び、十字架に架けられました。ここに神の愛があらわされました。だれでもこのイエス・キリストを信じ受け入れるならば、その人の内にもこれらの御霊の実が与えられるのです。これは、私たち本来の力では到底出来ない事ですが、神様の力によって可能となります。

是非この機会に、教会に足を運んでみませんか?

生きる喜びを得るために

『イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。』(エゼキエル書18章31b-32節)

気候の変わりやすい今日この頃ですが、皆さんは、いかがお過ごしでしょうか?

最近は異常気象や大きな災害の話をよく聞き、心安らかになることの出来る時代ではなくなっているような気が致します。たくさんの新興宗教が蔓延り、昔からの良かった伝統の価値も軽視され、どれを基準に判断すればいいのか、難しい世の中になっているのではないでしょうか?

この聖書箇所は、神様がエゼキエルという預言者を通してイスラエルの民に言われた事柄ですが、実は、このことは現代に生きる私たちにも当てはまるものなのです。聖書は、上記の聖書箇所にある通り、人の罪が自分たちを死に追いやっている、と言います。その罪ゆえに、人は生きる喜びを失い、不安に陥っているのです。しかし神は「だれが死ぬのも喜ばない」と言います。神は、罪の中に埋もれて何が正しいかを見失っている私たちに「真実の神を求めて生きよ」と語ります。なぜならそれは、私たち人が神のものであるからです。

神様を求めてみませんか?

本当に大切なもの

『だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』(マタイの福音書6章34節)

皆さんは毎日どのようにお過ごしでしょうか?

毎日の仕事や学校生活が楽しいと思えればいいのですが、私たち人はなかなかそう思うことが出来ない現実があるのではないでしょうか?人間関係に疲れ、自分自身の長所をなかなか認めることが出来ず、自己嫌悪に陥ってしまう。悲しみながら寝床に入ると、あっという間に朝が来てしまったということも、しばしばあるかもしれません。

聖書は「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します」と言います。そう言われてみると、そうだなぁと思います。人は明日何が起こるか本当のところ分かりませんから、分からないことを心配してもしょうがないというのは、理にかなっているでしょう。しかし聖書の言っていることはそれだけにとどまりません。今日が楽しければ、幸せであればそれでいい、そういうことを言っているのでもありません。「本当に大切なもの」は何か、その答えが聖書に書かれてあるのです。明日の事は心配しなくてもよい明確な根拠が聖書にあるのです。

皆さんも、「だから」に耳を傾けてみませんか?