すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11章28節~30節)
娘がいつの日か文部科学大臣からの文書を学校から持ってかえってきました。コロナウィルスに感染した人への嫌がらせやいじめがいろいろなところで起こっているそうです。その文書には「感染した人や症状のある人を責めるのではなく、思いやりの気持ちを持ち、感染した人たちが早く治るよう励まし、治って戻ってきたときには温かく迎えてほしいと思います。もし、自分が感染したり症状があったりしたら、友達にはどうしてほしいかということを考えて行動してほしいと思います」とありました。日頃から人に迷惑をかけないように最大限の配慮をしている私たちですが、この状況は目に見えない重荷となり、私たちに心の余裕がなくなってきているのかもしれません。普段の何気ない時には他者に配慮が出来るのに、それが出来ないのです。
上記の箇所はそんな私たちに語られている神のことばです。神はあなたが重荷を負って生きていることをご存じです。今どのような状況下に置かれ、どのような心で日々過ごしているのかを知っておられます(詩篇139:1-4)。だからこそ、あなたにその重荷を降ろし、平安のうちに生きることを願っておられます。しかしどのように重荷を降ろすのでしょうか。「…わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と聖書は語ります。くびきとは、下面に二つのくぼみを付けた頑丈な横木で作られた道具です。二匹の家畜(特に牛など)の首に固定させて車や鋤を引かせます。私たちは一人では生きていけません。常に頼る何かが必要です。家庭という存在があなたの居場所でしょうか。友だちとともにいるとき、一番自分らしくいられるでしょうか。仕事が一番の慰めでしょうか。あなたが一番頼りにしているものは何でしょうか。でもその頼る何かが自分に害を与えたり、頼りにならなければ、共倒れになってしまいます。でもその人やそのものを抜きにしての自分は考えられません。私たちは何らかのくびきを負う存在なのです。しかし聖書は「…わたしのくびきを負って」と言います。同じくびきでも、神のくびき、これがあなたに本当の平安をもたらすものなのです。
神のくびきを負うとは、自分の一番の信頼を神にすることです。聖書が教える神はこの世界を造られ、人をご自身のかたちに創造されたお方です。そして今もこの世界を治めておられ、あなたにご自身の愛を常に向けられています。しかし神は私たち人間に対する愛がどれほど大きいかを証明するため、これ以上大切なものはないというもの、すなわち、たったひとりしかおられない、ご自分の御子イエス・キリストを、私たちのために惜しげもなく与えられたのです。それがイエス・キリストの十字架の意味なのです。
「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」と聖書は言います。あなたを愛しておられる神の愛を知ることを通し、私たちは自分の重荷を降ろすことが出来るのです。自分ですべての重荷を負っていませんか?主イエス・キリストはあなたの重荷をともに負うと約束して下さっています。「わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言われているのです。