人はなぜ救いが必要か

『空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。・・・昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。』(伝道者の書1章1節~3節、9節)

この聖書のことばは、ソロモンという人によって書かれたと言われています。ソロモンは非常に知恵に満ちた王で、彼の王国は繁栄と栄華を極めました。しかしそのような成功を収めた人が、このようなことを語っているのです。どうしてでしょうか?

「塩狩峠」や「氷点」の著者である三浦綾子さんは、第二次世界大戦の敗戦後、非常に大きな虚無感を持ったそうです。七年間小学校の教員として子どもたちの教育に携わり、戦時中の価値観で、子どもたちを一生懸命教育しました。国のために戦争をすることが良い事だと思い、それが教育につながると思いました。しかし敗戦により、その価値観が一変してしまいました。自分がこれだと思って教えてきたものが、違うと真っ向から否定されてしまったのです。その後、国のあり方や、自分の信じてきた歩みに疑問を抱く日々を送るようになったそうです。

上記の聖書箇所は、その三浦綾子さんが大きな衝撃を持ったとされることばです。なぜ衝撃的であったかというと、世の中の在り方に失望していた三浦さんですが、聖書の教える、この世に対する失望は、それを大きく上回るものだったからです。彼女は、その著書の中でこう語っています。「わたしはここまで読んで思わず吐息が出た。わたしはかなり自分が虚無的な人間だと思っていた。何もかも死んでしまえば終りだと考えていた。だが、この伝道者の書のように、『日の下には新しいものは一つもない』とまでは思ったことがなかった。」[1] 更にこう語っています。「毎日が結局は繰り返しだと思いながらも、しかしわたしはやはりこの世に新しいものがあると思っていた。こうまですべてを色あせたものとして見るほどの鋭い目をわたしは持っていなかった。」[2]と。

皆さんは、何を心の糧として歩まれているでしょうか。自分にとって支えとなる価値観は、どのようなものでしょうか。思えば、私たちは何かをもってこの地上に生まれたのではなく、また、何かをもってこの地上を去ることも出来ません。「日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう」と思わざるを得ません。しかし、この聖書のことばは、この世に、或いは自分自身に希望を置くのではなく、私たちを造られた存在に目を留めるように促します。この世界を造られた神がおられ、その神が私たち一人一人を愛されているとするならば、私たちは自分自身の存在に意味を見出すことが出来き、自分が生きなければならない目的を見出すことが出来るからです。しかし聖書は、その一方で、私たち人間は生まれながらにして、その神から目を背ける罪(原罪original sin)があると云います。神がこのすべてを造られ、今も治めておられることを見えなくさせる罪、その神をないものとして生きようとする罪がある。そして人はその罪を持ったままだと、自分の生きる意義、人生の目的を見出すことは出来ない、と云うのです。

イザヤ書43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。…

あなたを生まれる前からすでに知っている神を、是非、知ってみませんか?

[1]三浦綾子、「道ありき 青春編」主婦の友社、1969年、81頁。                          [2]三浦綾子、「道ありき 青春編」主婦の友社、1969年、81頁。