私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは【主】から来る。天地を造られたお方から。(詩篇121篇1節、2節)
上記のことばは「都上りの歌」と呼ばれ、エルサレムへ上る巡礼の旅の途上で歌われたものと一般的に理解されています。危険が伴う巡礼の旅の中で詩人は助けを呼び求めます。私たちはエルサレムへの巡礼の旅はいたしませんが、この地上での歩みは、ある意味、巡礼の旅と言ってもいいのかもしれません。私たちは何処へ向かって生きているのでしょうか。あなたの助けは何処から来るのでしょうか。大自然を見た時に、私たちの日常の生活の背後に、それらを造られ、治めている創造主がおられることを知れたら幸いです。聖書は、この世界はビックバンという偶然の産物によって始まった偶然の存在の集まりではなく、人格を持った神が、目的を持って造られたものである、と語ります。そしてその被造物の中に人も含まれているのです。
あるドキュメンタリー番組で、富士山のふもとにある幼稚園が取り上げられていました。その幼稚園では年長になると卒園記念ということで、すべての園児が富士山を登るのだそうです。園長の方針によってその登山は長年、続けられてきました。登山の際、もちろん保護者も一緒に山に登るのですが、自分の子どもには一切手を貸してはいけないというルールがあるとのこと。子どもたちは一列の隊をなしながら、自分の力だけで、日本一の山の頂を目指します。園長先生がインタビューの中でおっしゃったひとことが、心に留まりました。「この屋上から見えるところ全てが『園庭だよ』っていう発想なんですね。(富士山登山は)普段の散歩をもうちょっと長くしようというような発想」(なのです。)
この屋上から見えるところ全てが「園庭だよ」という発想がすごいなと思いました。
山は危ないから、と制限するのではなく、ここも、子どもにとって学びの場所となるという前向きな考え方。子どもがけがしたらどうなるのだという責任問題ばかり考えてしまう、大人の思考(もちろんそれも大切なことなのですが…)で、遊び場を小さく狭くしてしまっているこの世の中に、一石を投じているようにも感じました。しかし大人の思考で狭めてしまっているのは、子どもたちの遊び場だけではありません。科学の発展とともに、何かを信じる領域も小さくなってきているように思います。狭い視野で、自分はこれしかできない、と出来ないことしか考えない思考が身についてしまっていることはないでしょうか。
私たち人は神によって造られました。だから神の愛が注がれています。私たち人は偶然生きている存在ではなく、自分で自分の価値を見出さなければならない者でもなく、神にあって明確な生きる目的と意義を持った存在なのです。だからこそ詩人は、不安と緊張の入り混じった中「私の助けは、天地を造られた主から来る」とうたいました。私を造られた神が私を見捨てることはないと思ったからです。ここに天地を造られた神を信じる希望があるのです。
あなたも神に愛されている人です。